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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =028=

2017-09-28 07:33:42 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠

◇◆ 現地から届いた手紙 =3/6= ◇◆

 日本山岳会エベレスト登山隊の一員として、ネパールにいた植村は日本の友人新年の挨拶状を送っている。 その通信文の欄外に、1969年12月26日と日付が記されている。律儀できちょう面な植村が文面から伝わってくる。エベレストもネパールも、今よりずっと遠かった。はるか彼方の世界から植村の声が届けられたような思いをもった。

 それにしても、海外から送られてきた年末年始の挨拶状が多い。年賀の挨拶が間に合わないようなときは、年始という感じのハガキが届いた。年賀状を欠かさない律儀な男であると同時に、正月に日本にいない(あるいはいたがらない)男なのだった。

 ハガキをもう1枚。70年9月5日の日付でアンカレッジから。この年の5月、植村はエベレストの頂上に立った。帰国した後、何かに追われるようにしてアラスカに向かった。北米最高峰のマッキンリーに単独で登るためである。成功した後のハガキである。

《お蔭様で5大陸の最後の山、マッキンリーの単独登山に成功し無事下山することが出来ました。登山には8月中旬より末まで2週間、前半悪天になやまされたですが意外に簡単に登頂することが出来ました。9月5日、これからアンカレッジよりNew Yorkに出ます。少し南極の件で調べものをして、9月中旬帰国の予定です。又、宜しくお願い致します。9/5 アンカレッジにて 》

 植村の南極単独横断について、私は初めて具体的に相談をもちかけられたのは彼が帰国した後、9月の末頃だった(そのことについては、前記載「始まりと終わり」で既に書いた)。 しかし、このハガキを見るかぎり、エベレストから帰ってきてから、彼は「南極の件」を漠然とではあるが示唆的に話題にしていたようである。ただ、まだ具体的な冒険のスケジュールまでにはなっていなかった。

 年賀状とかちょっとした連絡のハガキ以外に、私は連続して手紙をもらったのは、一万二千キロの旅のときであった。この冒険行は、文藝春秋、毎日新聞、NET(テレビ朝日の前身)の3社が後援したのだったが、各社の担当が手づくり感覚で植村を支援したという感じが強かった。植村の冒険じたいも、規模が雄大なわりには、手づくりのような感じがあった。だから、旅先から私宛に、報告やら事務連絡やらの長い手紙が送られてきたのだろう。

 そのときの手紙を2通、時間順に紹介する。その前に北極圏一万二千キロの犬橇旅行の行程をごく大まかに辿っておこう。

 1974年12月20日、グリーンランド西海岸のヤコブスハウンを出発。12頭のエスキモー犬が植村と装備を載せた橇をひいた。犬橇は北上し、翌75年2月26日、米軍の基地があるチューレ(ドンデシ)に到着。そこから近くにあるシオラパルクまで北上し、なじみ深いこの最北の村に滞在してカナダに渡る準備を整えた。

 3月27日、シオラパルクを出発。氷のはったスミス海峡を渡って、カナダの最初のグレイスフィヨルドまで、1200キロの無人地帯を行く。4月15日、グレイスフィヨルドに到着。数日滞在。

 6月12日夜、次の目標地であるケンブリッジベイに到着。ケンブリッジベイは人口約850人のちょっとした町で、飛行場もある。この町から100キロ南東に位置するアンダーソンベイの、オホッカヌア老夫婦の家に寄留して越夏。

 12月15日、ケンブリッジベイを出発。新しく編成した13頭の犬が犬橇をひき、旅の後半が始まる。2月24日、タクトヤクトック到着。ここから、カナダとアメリカ(アラスカ)の国境は近い。

 3月7日、タクトヤクトック出発。3月21日、アラスカに入る。3月25日、アラスカ最初の村カクトビックに到着。以後、ポイントバロー、ポイントホープを経て、5月8日、最終目的地のコツビューに到着。一万二千キロの単独犬橇旅行が終了した。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!! すごい海外のアルピニスト=アルマン・シャルレ

1920年~30年代に大活躍したフランスの名アルピニスト。 エギーユ・ヴェルトやデント・デュ・ジェアンなど、フレンチsルプスの困難な大岩壁を次々と初登攀で陥落した。 グランドジョラス北壁は初登攀にこそならなかったが、彼の試登は後続の登山家に刺激を与え、多くのヒントをもたらした。

彼はフランス山岳ガイドの代名詞といえる存在で、客を導きながらフレンチアルプスの高峰を1200回以上登頂した。 山岳救助にも活躍し、フランス政府から最高の勲章であるレジオドヌール勲章を授与されている。 登攀技術がすごすぎるあまり、前爪付きのグランポン(アイゼン)など当時の最先端ギアの導入には否定的だった。 補助道具を積極的に多用する人口登攀には批判的だった。

グランドジョラス :アルプス山脈モンブラン山塊にある山。フランスとイタリアの国境に位置する。標高4,208m。約1kmにわたる頂稜には6つの頂がある。 

1907年 - ジョフリー・ウィンスロープ・ヤングとヨゼフ・クヌベールが北壁周辺を初めて偵察

1928年 - アルマン・シャルレとエヴァリスト・クルーによりウォーカー側稜の本格的な試登が初めて行われる。3300mのスラブまで到達。

1931年 - 二つのドイツ隊が試登を行うが、二人が墜落死

1933年- ピエロ・ザネッティ、ジウスト・ジェルヴァズチがクロ側稜を試登し3500mまで到達

1934年- アルマン・シャルレ、ロベール・グレローズがクロ側稜3600mまで到達

1935年6月25日- クロ側稜初登攀、マルティン・マイアー、ルドルフ・ペータース

1938年8月6日- ウォーカー側稜初登攀、リカルド・カシン、ジノ・エスポジート、ウゴ・ティッツォーニ

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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